第11回 2023年2月28日
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新人教育、社内教育・・・教育ってよく聞くけど
結局「何をどう」育てるの?
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ここ最近、いよいよ後継者がいなくてとっても素晴らしい「商品」と「技術」があるのに会社を閉じる企業がある。いい商品とお客様がいても商売を続けられない。後継者が現れないって何なんだろうって考えるよね。
「最近の若者は・・・」という年配者の愚痴を最近、耳にする機会が何だか少なく感じるのは私だけでしょうか。
おそらくそう言っていても現実が変わらない。それ以上に若い者にしか分からない問題が、そうSNSの世界やメタバース、NFTとかっていう年配者にはもはや異次元の加速度的な世界観がこの世の中を動かし始めていて、若者は仕事ができないとか言えない時代に突入しているからかもしれない。
いやむしろ、今だと年配者の方が仕事出来ないんじゃね?とかってなっている可能性もある。
でもここで、AIが登場して、今までは真似のできなかった頭の良い人の仕事が、「これ機械でもできるじゃん」ってなってくると、今度は肉体労働や繊細な技術職、特殊な技を必要とする職業が唯一、人に残された住処になってくるかもしれない。
そうした時に、もう一度「人間にしかできない価値あることって何だろう」って回帰してくるよね。
そんなとき、私たちに残されるのは・・・残されるんじゃなくて人間特有の物は「心の中の物」であり、感情のコントロールや鍛錬の末得られる芸術に近い技術力であったりする。とくに心の機微といった人にしか理解し得ない感覚的なものや、信じるといった掴みどころのないが力になるもの。念ずると言った人の存在を支える思いであったり、愛おしむと言った人を育てる熱意であったりが、本来の人の役割だと気付くんだろう。
人は失って初めて気付くと言うけれど、この飽食の時代、モノがあふれる時代、選択肢が爆増した時代に、どんどん奪われて行って、そして残った少ない選択肢の中に宝石のような人間の生きる価値を見出すという悲劇が演じられているのかもしれない。
だって悲劇じゃないか!もっと早く気づいていれば、大切なものを失わずに、一緒に豊かな世界を生きることができたのに、無くして、丸裸になって苦しみの末に、自分の命の価値に気付くなんて遅すぎる。
Webが進化して、ネットも5Gがつながり、動画の視聴にストレスがほぼないこの時代、1人の素晴らしい先生の授業を全世界の生徒が視聴する。各分野にそれぞれ秀でたスーパー教師が教えればその効果は計り知れない。そんな時代。
私たちは何をどう育てるのだろうか?豊かな時代、食べ物を得るために苦労することも大方の人はない。そんな時代に思い返すと、「心の豊かさは」いつの時代からなかったのだろうか?平成?昭和?大正?いや結構前からないような気がする。
いや、時代に少ないのではなくて、人間の習性的に「豊かになろうとする揚力」が働くと「心の豊かさ」は反比例し、減っていくのかもしれない。
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その人の成長は、自分にどんな影響を及ぼすのか?
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人を育てるのは知恵知識の部分ではなくて、心の部分って話を前半でしたんですが、
実は育てる事を通して、自分が育てられるってことも当然ありますよね。
そういった内容は教育書や育児の本を読めば腐るほど書いてある。そう、その通りなんだけど、最近とっても思うのは、その育てた経緯や乗り越えてきた試行錯誤の内容が蓄積されていない事。
会社内では特に・・・家庭では無理でしょ・・・お父さんやお爺さんの日記でも読む?お母さんの育児記録を読めばもしくは?とは思いますが、会社は家庭ではありません。ある業種、業務という決まった線路の上で、複数人が力を出し合って人数の倍以上の力を出すってことで組織の存在意義を保っている場所です。つまり、家庭よりも長い期間育てるってことに従事し、ある程度似通った傾向性があり、知恵や知識の蓄積がしやすい環境にある。
それなのに、中小企業っていうとそういう記録が全くないんですよ。
大企業ではそれがマニュアルの形で残っているんですが、これはまた読むのが辛い。
だからホントは苦労したこと、試行錯誤したことを文章やブログみたいな形、動画や物語みたいな形に残しておくのが望ましいですよね。読みやすく、振り返りやすくしてほしい。
実はそれが昔は出来ていたんだろうって思うのが、口伝による「伝承」や「諺」、「慣用句」などではないでしょうか?歴史的に災害が多い所には啓蒙する言い伝えやことわざによって構成に警告するなどの形で語り継がれていたりします。
今は、文明が発達して「残す」ということが簡易になったのですから、もっと読まれる、読み継がれるそして楽しくて教訓になるものを残していきたいって思いますよね。
それが育てる際にできる副産物ではないでしょうか?
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喜べなくなってきた人間・・・
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私たちは今、何に喜んでいますか?素直に喜べていますか?
あるアフリカの部族には「幸せ」という言葉がないんだとか。
だってそうだよね。与えられたすべての物は恵みであり、感謝の対象であるから。何時から人間は喜べなくなり、不幸を感じ始めたんだろう?私たちは何時までは素直に喜んでいましたか?
それを考えると、教育とは「喜びに目覚めさせる」ことではないかな?って思ってきた。
だから、講演会とかで希望や勇気をもらう人がいる。インフルエンサーから刺激を受けて新天地に旅立つ人がいる。死を間近に語る女性の言葉に胸を打たれ活動を開始する人がいる。それらすべては教育なのではないか!?人に本当の喜びはなにかを目覚めさせ、素直な気持ちにさせると、その人は動き出すものだと思う。
だから、本来教育は詰め込むことでも付け足すことでもなく、余分な脂をそぎ落とし、目の曇りを取り、「素直な気持ち」にさせて、「本当に見るべきもの」に向き合わせることだろう。
そのとき人は自然と動き出す。